浄化

浄化という言葉がある。
穢れを払うとか、曇りを落とすとかいう意味だが、宗教的にいうと魂の汚れを落とす、というほどの意味である。精神浄化といえば、精神的な苦しみを受けることによって、その汚れを落とすことになる。身体がやられる方は肉体浄化というのだけどね。

実は私はとある宗教の信者である……といっても世襲というか、親がやってたから信者なだけで、ほとんど習慣のようなものだ。神様を信じているか、とか真面目に聞かれると返答に困り、何か信仰的なことをやっているのか、と問われればキリスト教の一般信者並には、ということになるだろう。つまりは不真面目な信者である。でもご献金は凄くやっているのだぞ。

そもそも欧米型の宗教の一般的な信者というのは保険と同じだそうである。一般常識として死後の世界があると「言われている」ため、もし信者でないまま死んで地獄があったりしたら悔やんでも悔やみきれない。だから掛け捨て保険みたいな感覚で宗教にお布施したり参拝したりする。天国や地獄がなかったとしても、まぁ生前献金したりした金額は捨ててもいいやということらしい。

日本では、転生とか地獄極楽という概念がポピュラーな割には、死後に対する備えとして宗教に入る人は少ないようである。私も親がやってなければ間違いなく宗教なんかに係わらないタイプだ。だが、親に逆らってまで信者にならないような根性がないので、とりあえず続けている。慣性の法則というのがあって、いったん何かを初めて続けていると、やめるのに多大なエネルギーを要する。その程度の信者なのだ。

で、実は私はこのところ会社で色々虐められたり不公平な目にあったりしているのだが、こういう時に宗教は実に便利である。全部浄化なのだ。精神的な苦しみ(いや、イジメといってもさすがに会社で暴力ふるわれたり上履きを隠されたりするわけではなく)なので、魂が磨かれていると思えば悔しさも少しは軽減される。うちもそうだが、宗教というのは苦しいときに現実逃避するための色々なアイテムがあり、いつもは目もくれないそういう書籍を読みふけって耐えるわけである。

うちの宗派では朝拝や夕拝のときにお歌を3句読む(詠むんじゃなくて、読む)のであるが、これが時々ズバッと現在の苦境を切ったりするわけである。宗教なんだから、そういう奇跡というか御利益もあるわけで、さっきクタクタになって帰ってきた私が読んだお歌がコレであった。

如何ならぬことも堪へてさりげなく微笑みあしらふ人となれかし

これですよ。こういうことを言ってくれる人って普通いないよなあ。
ま、ぶっちゃけ我慢せい、と言っているだけなのだが、今の状態でこの句が出てくるのがにくい。宗教の存在価値はこの一瞬にあるのではないかと愚考する次第である。宗教もないよりはあった方がいいよね。

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