お金を貰って

お金を貰って書いた原稿やコンテンツなら、それは「労働の対価」として自分の中で決着がつくものである。後から振り返ってひどいな、と思うモノであっても、その酷さの責任はしっかりと自分の中で認識できるので、「これが私よ! 私を見て!」という自虐的な覚悟もとれるというものだ。

しかし、カネにならない原稿というのは実に恥ずかしい。こっちの一方的な持ち出しである。責任がない分、アレはなかったんじゃないのか、という後悔が拭いきれないのだ。
私にとっては同人誌の原稿がそうである。あるいはこの日記か。まさに自分の恥部をただでさらけ出して、はっきり言って露出狂だ。

ただ、この日記とかネット関連のコンテンツは取消や修正が効くので、間違ったことを書いたりあまりにも目に余る場合にはこっそり訂正してしまうことができる。だからこそ、私はこの日記を書き続けることが出来ているのかもしれない。編集機能がなかったら、こんな日記なんか恐くてアップできないよ。

もっとも、最近の原稿は自分でも結構マシになってきていると思うので、後悔は少ない。だが、ずっと昔に書いた原稿、これはもう考えただけで顔から火が出そうである。
しかも、文章ならいくらひどくても読者が読まないからダメージが少ないが、漫画はひどい絵でもとりあえず読めてしまうわけである。そして読者は思うのだ。「これは酷い」と。

何回も書いた通り、私は大学時代マン研にいた。どっちかというと文章が好きなのだが、当時のSF研はなんかうさんくさい上にあまり活動してなくて、入らなかったのである。その代わりにSFマガジンなどに募集が載っていたサークルに入っていた。そこでも原稿を書いていて、同人誌も出していて、これがまた酷い(今と違うペンネームなのでもう忘れることにしている)のだが、それはもはや縁が切れているので私とは関係ないのだ。

ところが大学のマン研はまだOB会でつき合いが続いていて、しかも大学にはマン研が未だに存続しているのである。少なくとも数年前まではあった。後悔しているが、数年前にOB会のついでに気まぐれに訪ねてみるとまだ同じ部室を使っていた。そして、懐かしい部室の棚には「肉筆回覧誌」が……。

肉筆回覧誌とは、あえて同人出版を求めず、生原稿をそのまま綴じて作るこの世でただ一冊の本である。創設者がコダワリ派だったようで、私が入会したときはそうなっていたのだ。私たちの代になると、ちゃんと同人誌作ってコミ○に出すようになったが、私がペイペイの時の原稿(絵もストーリーもバックも目もあてられない)は、生原稿がそこにある。

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